1話
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは1798年4月26日(共和暦花月7日)
パリ郊外のシャラントン=サン=モーリスで裕福なブルジョワ階級であるドラクロワ家の三男として生まれました。
父親は元外務大臣であり、当時はオランダ公使を務めていたシャルル・ドラクロワ。
母親は宮廷家具師の娘ヴィクトワール・ウーバン。
兄弟は19歳年上の長兄シャルル・アンリ、18歳年上の姉アンリエット、14歳年上の次兄アンリがいます。
ウジェーヌは7歳の頃に父シャルルと死別し、以後母ウーバンの手一つで育てられてきました。
それから2年後、次兄アンリが戦死します。
1806年、ウジェーヌはパリのリセ・アンペリアルに入学し、ギリシャ語やラテン語など各科目において優秀な成績を修めました。
そして、学業以外にも文学や音楽に興味を持ち、とりわけ美術には大きな関心を寄せました。
音楽については、姉が弾くオルガンに合わせて歌っていると姉のオルガン教師がウジェーヌを音楽家にすべきだと母親に強く薦めた
という逸話も残っています。
また、音楽はウジェーヌにとっても生涯イマジネーションの源となり、創作に必要不可欠な要素となりました。
そして、ウジェーヌが美術に興味をもった切欠は8歳の頃にルーブル美術館を見学したことだと言われています。
その頃のルーブル美術館はナポレオンがヨーロッパ諸国から持ち帰った美術品であふれており、ルーベンスの代表作「マリー・ド・メディシスの生涯」などの
数多くの偉大な絵画が展示されていました。
以降ウジェーヌはわずか8歳にしてデッサンを始め、いろいろな人体の姿勢を描写し、独自に省略法を発見したそうです。
裕福な家庭でのびのびと何不自由なく育ってきたウジェーヌですが、1814年9月3日母親ウーバンの病死後、生活は一転します。
母の所有していた山林に関する裁判で、ドラクロワ家の財産は全て解消され、
ウジェーヌに僅かに残された遺産は銀の皿2組と水差し1個のみという過酷な状況に陥ってしまいます。
自身で一番可能性をもっている絵で生計を立てることを決意したウジェーヌは、叔父である画家リーズネの紹介で
新古典主義の創始者ダヴィッドの門下、画家ピエール・ナルシス・ゲランのアトリエに入り、
本格的に絵を学び始めました。
ウジェーヌがゲランのアトリエに入門した1815年は、6月にワーテルローの戦いでナポレオン率いるフランス軍が敗北し、フランス第一帝政が崩壊。
そしてルイ18世が即位し、ブルボン王朝が復活するなど、政治が一変した動乱の年でした。
叔父リーズネが描いた16歳のウジェーヌ・ドラクロワ