4話
1816年フランス海軍のフリゲート艦「メデューズ号」はアフリカの植民地セネガルへ向う途中に誤った航路を進んでしまい、目的地の目前で座礁してしまいます。
乗組員は端艇で上陸することとなりましたが、全員を乗せる事ができず、残った150人は急ごしらえの筏でアフリカの海へ投げ出されました。
筏は操作も出来ず、2週間も海を漂流する事態になってしまいました。
筏に残された人々は極限状態に追い詰められ、互いに殺し合いました。生存者も飢餓に襲われ、ついに食人行為に至ってしまいます。
その後奇跡的に筏は発見され生き残った人間は救出されますが、生存者はたったの15人だったと言われています。
筏の生存者である、船医アンリ・サヴィニーと地理学者アレクサンドル・コルレアールはフランスへ帰国後、政府がこの事件を揉み消している事態を知り、雑誌「ジュルナル・デ・デバ」でこの事件の全てを告発します。
何故政府は事件を揉み消したのか、その背景は、メデューズ号の指揮官デュロワ・ド・ショーマレーは「アンシャンレジーム」の生き残りであることが原因でした。
「アンシャンレジーム」とは旧体制の意味で、貴族や聖職者ら特権階級のための封建的な社会体制のことを指します。
ナポレオンが失脚し、フランス革命前の王政が復古した当時は、貴族であったことが理由で経験知識を持たずに、重要ポストに就く事が許された人々が数多くいました。
指揮官ショーマレーも海上勤務から20年以上も遠ざかっていたにもかかわらず、艦隊の指揮官という地位を手に入れてしまいました。
発足したばかりの王政復古政府はこの事件による政府批判を恐れ、事件を国民にひた隠していました。
画家、テオドール・ジェリコーは雑誌で告発されたこの事件に夢中になり、次のサロンに出品する作品にこの事件を描く事を決めました。
生存者に接触し事件を念入りに取材し、さらには死体の描写のために死体置き場へ通い、借りてきた死体をアトリエに放置し腐敗していく様子を詳細にスケッチいたそうです。
ジェリコーの「メデューズ号の筏」
同じゲラン門下の先輩画家ジェリコーに傾倒していたドラクロワは、中央のうつぶせになっている人物のモデルを務めています。
そしてこの絵画の力にみせられたドラクロワは「それを見た時の印象は実に激しく、そこ(アトリエ)を出ると私はずっと走ったまま狂人のように自分の住んでいたプランシュ街へ帰ってきた」と述べています。
「メデューズ号の筏」は1819年のサロン・ド・パリに出品されました。
神話や英雄、ギリシア芸術を理想とした「新古典主義絵画」が全盛の当時、英雄の存在しない積み重ねられた死体の山に人々は嫌悪し、さらに政治批判に
「芸術」を利用したとして、ジェリコーを強く批難しました。
結果ジェリコーの「メデューズ号の筏」はルーヴル美術館の倉庫に"問題作"として封印されてしまいました。
しかし、ジェリコーの絵画はドラクロワを始めとした、若い画家たちに大きな影響をもたらしましました。
"理想主義"、"無個性"を貫く「新古典主義」絵画に真っ向から対抗する、"個人の感情"、"個性"を主とするフランス「ロマン主義」絵画の幕がついに開かれたのです。