6話
1821年、23歳のドラクロワは初めてのサロン・ド・パリの出品へ向けてある絵画の制作に入ります。
それは以前から愛読していたイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」から抜粋し、絵画化したものでした。
ダンテはドラクロワに多くのインスピレーションをもたらしました。ドラクロワが書いた私的な日記にはよくダンテの名が登場しています。
「作品を前にして深く静思すること。ダンテのことだけを考えること。これは常に私が自分の内に感じていたことである。」(ウジェーヌ・ドラクロワ著中井あい訳「ドラクロワの日記」より抜粋)
ダンテの小船の習作
ドラクロワは美術学校時代からの親友レーモン・スーリエと約束していたイタリア留学を取りやめ、この絵画制作に集中しました。
絵画は1821年の4月初めに完成し、ドラクロワはスーリエへ「サロンへ出品する重要な作品が完成した。自分の運を試すつもりだ」と手紙で綴っています。
この絵画をサロンへ出品する前にドラクロワは師匠のピエール・ナルシス・ゲランに批評を求めますが、ゲランはこの作品にあまり気乗りせず、良い評価をしませんでした。
画家アントワーヌ・ジャン・グローは、かつて新古典主義の総帥でフランス画壇の権威であった、グローの師ジャック・ルイ・ダヴィッドが政治的な理由でベルギーに亡命したあと、
フランス画壇を率いていた優れた画家でした。
作中に言っていた「エイローの戦い」(又は「アイラウの戦いにおける野戦場のナポレオン・ボナパルト」)
アントワーヌ・ジャン・グローの代表作
ドラクロワはたまたまグローに出会い、「ダンテの小舟」を彼に見せる機会に恵まれます。
グローは「若き友よ、君はすべからく描くことを学ばねばならぬ、さすれば君は第二のルーベンスになるであろう」(坂崎坦著「ドラクロワ」より抜粋)
とドラクロワの敬愛していたルーベンスの名を引き合いに、ドラクロワの絵画を賞賛しました。
ドラクロワはのちに日記で「たまたま自分はグローに出会った。問題の画(ダンテの小舟)の作者が自分であるとわかると、彼は信ぜられぬほどの熱意をこめてほめてくれた。そのほめ方たるや、
この先どんなお世辞も自分を無感覚にするほどであった」(坂崎坦著「ドラクロワ」より抜粋)とその時の感激を綴っています。
当時仕事もほぼ無く、貧困だったドラクロワはこの絵につける額縁を買うことも出来ず、4本の木切れに黄色の胡粉を塗って額縁の代用にあてようとしていたところ、
グローは自身が利用していた経師屋に命じてこの画に立派な額をつけてくれました。
絵具も良いものが買えず、粗悪なもので描かれたため、現在確認できる絵は発表当時よりかなり黒ずんでいるそうです。
そして制作の翌年、1822年に絵画「ダンテの小舟」はついにサロン・ド・パリへ出品されます。
ちなみにこの「ダンテの小舟」、印象派の父といわれている画家マネやポスト印象派の画家セザンヌが模写した作品が存在するそうです。